Takakoです。2018年6月18日午前7時58分、出勤しようと丁度玄関のドアを締めようとしたその瞬間、何だかクラっと感じたら、携帯の『地震が来ます!地震が来ます!』の大アラームが鳴り響きました。反射的に家の中に入り、ペンダントライトがペンジュラムのように揺れているのを目撃。幸い、グラスひとつ割れることなく揺れは収まりましたが、ひとつ、自分的には「教えてもらった」とものすごく腑に落ちたことがありました。実はわたしは、夢で何かの本を見せられたりすることが過去数回あったのですが、そのいずれも何が書いてあるか、文字がぼやけて解読には至らなかったのです。それが、地震の10日ほど前に、漢数字でしかも縦書きの【十八】が古い古い黄ばんでボロボロのような紙か何かに書いてあるのが西側に見えて。夢の中で「やった!読めた!」と喜んだのもつかの間、なんとなく不穏な雰囲気もあり、忘れてしまわないよう、めずらしくすぐメモしました。18と聞くと、すぐに日付を連想してしまったのですが、親しくしているひとたちの誕生日があるわけでもなく、何が起こるんだろうとは考えたものの、まさか地震とは思いもよりませんでした。
その地震から今日で5日目。幸いというか何というか、阪神淡路大震災のような大惨事には至っていませんが、ガスや水道、電気が止まったために不便な生活を余儀なくされている方々のストレスは相当なものだと感じています。なんか微妙に「不便なだけ」なので、仕事や生活は、まあ普通にしないといけない。現代ではあって当然の温かいお湯でシャンプーできない、ご飯が炊けない、といった不便さは、そうではない人々にとって、思いっきりデフォルメしていうと「たいしたことない」になってしまう。でも、それら細かいストレスが蓄積されていくことが、よく引き合いにだされる「かえるの釜茹で」のようにジリジリと、当事者であろうがなかろうが、わたし達を心身ともにむしばんでいくのではないかという気がしてなりません。
そしてわたし自身も、そんな一抹の違和感や、また地震が起こるのではないかという不安を抱きながらも一見何事もなく進んでいるかのような日常の一部となっています。そして、揺れながらでも自分を信頼し続けることを毎日毎日更新し積み重ねていくものだという信念のようなものを新たにしています。その信念とは、いささか乱暴に言ってしまえば繰り返しの思考の結果。さて本日は、ちょっと残念な思考の固まりについてでございます。✨ここでちょっとしたお知らせ:地震の影響についてご心配くださっていた皆さま、ありがとうございました。Takakoの調子も戻って来ました。個人セッションも万全の態勢で再開致します。ご予約をお待ちしております⭐
淡々と業務を進めればいいものを、つい自分の手柄にしようとしたり、自分の都合のみで進めたり。自分に関係のないことなのに詳細な説明を人に求め、アドバイスしようとする(が、あまり役に立つものでもないことが往々にしてある)そして、その結果、本当に重要なところが抜ける。これらすべて、仕事に集中しているというより、エゴが全開の状態ですね。「その思考、要らんし!」とわたしは叫びたい(苦笑)
惚れて惚れて惚れぬいて尽くしまくった結果、捨てられてしまう。そしてあなたは言う「あんなに尽くしたのに!」自己評価の低さも考えたい問題ですね。あと、失敗を親のせいや他人のせいにするのも根深い。
これは実体験。2年ほど前、とある講座に参加したところ、そこでのワークのひとつが《思考のパワーを使う》というものでした。やり方は、ペアで向かい合って立ち、一人が相手に向かって心の中で「こっちに引っ張られろ!」と念じ続けてその結果どうだったかをみるというもの。つまり相手の思考のパワーで、どれだけ自分が引っ張られていったかを感じ【思考のパワーって強いのね!】と認識することが目的と思われます。わたしは『おお!結構引っ張られるね』と素直にパワーに委ねていたのですが、驚くことに多くの人々が『引っ張られないようにした』とシェア。何で?!抵抗するのって逆やし!パワーを使うのは受けるほうではなく、引っ張ることを意図するほうなのに!みんな、ワークの説明をしっかり聞いていたのかな?わたしの相手もそのタイプで、おかげでわたしは、自分の思考パワーがどれほどのものか掴むことができませんでした!ああ残念!
お分かりでしょうか。これらすべて、どこかでボタンを掛け違えていることに。思考のベクトルが北を向いていないというか、方向性も何もなく、ただ考え方の癖になってしまっていることに。そしてそれが激しく自己矛盾につながり、やがては自分で自分に呪いをかけることになる。では、どうやって呪いを解くのか。それはまた別の機会に。
本日もお読みいただきありがとうございました。また、おつきあいくださいませ。