わたしが、なんて美しいんだろうと思う日本語のひとつに『﨟長ける」がある。辞書にはこうある。主に女性の気品溢れる美しさを形容して用いられる表現。「﨟長けた(婦人)」と連体形で用いられることが多い。「﨟」の語には「年功を積む」という意味があり、いわゆる貴婦人をさして「上﨟(じょうろう)などとも言う。同じく「年功を積む」という意味から「﨟長ける」は「経験を積む」という意味でも用いられ得る、と書いてある。また類語辞典では、本来は経験を積んだり年をとって立派になった意とあった。きっとないだろうと思いつつ、試しに毎日仕事で使っている辞書で、英語でなんと表現するのか調べてみたが、案の定、載っていなかった。私見だが、この言葉は昨今滅多に使われていないのではないかと感じる。”読みやすさ”を重視する現代では、このような折り目正しくもその在りようが霞に包まれたような、しかし凛と匂い立つような美しさを一言に包含する言葉はどんどん廃れていってしまうようで悲しく思う。「誰が読んでも理解できる」とは、言葉の奥に秘められた意味の成り立ちなど、いささか乱暴に言ってしまえば度外視しているかのようだ。
ところで、なぜこの記事を書き始めたかというと、拙宅にそんな「臈長けた婦人」がやってきたからである。その貴婦人は正月準備の為に買った葉牡丹で、お正月が過ぎ、春節を過ぎても一向に衰えない。「一体、いつまで保つのか」と不思議に思った怠け者のわたしは、やっと花瓶から全長40センチほどの長い葉牡丹を引き揚げてみることにした。すると驚いたことに、茎の端から束になった、最長で約30センチはあるような根がついていた。知らず知らず、花瓶で水栽培をしていたようなのだ。この葉牡丹の《生きる》という本能に打たれ、これは捨てるわけにはいかない、と思った。そして週末に植木鉢に一本、植え替えた。葉牡丹はなよやかな艶姿でポーズをとっている。彼女の生きるための策略にまんまとしてやられた気分だ。そしてこれをわたしは「臈長けた」と呼ぶ。その意思の強さ。流されなさ。今後の自分のお手本として、末長く愛でたいと願っている。
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