Takakoです。キライというか、コワいというか、キモい。そうわたしは虫がきらいです。でも今回は虫のお話をさせていただきますよ。

先日ある人から「カマキリの自殺願望」のお話を伺いました。それによると、それまで普通に生きてきたカマキリが、ある日突然、水辺に行きたくなり、実際水辺に行って飛び込んでしまうことがあると。そしてこの行動には「ハリガネムシ」という寄生虫が深く関係しているそうです。サクッと説明しますと、ハリガネムシの幼虫はカマキリなどの昆虫類に寄生し、宿主の養分をもらいつつ成長を続けますが、もともと水生生物であるため、成長後は水辺に戻らなければなりません。さて、どうやって戻るか。彼らは自分の体内から出る、ある種の物質をカマキリの脳に注入(その物質からはタンパク質が検出されており、これに関する研究も進んでいるとのこと)して、カマキリをまず水辺に誘導し、さらに水辺にたどり着いたカマキリが、どうしても飛び込みたくなるよう心理操作するそうです。その後、あえなく入水自殺したカマキリのお尻をバリバリ破って、成虫になったハリガネムシがゆうゆうとご登場。ホラーすぎる!あり得ない!とわたしも最初は思いました。が、上記リンクのナショジオ記事では、佐藤さんと仰る研究者の方が「行動実験と分子生物学的な実験の結果を合わせて考えると、おそらく神経発達をグチャグチャにして異常行動をさせながら、光応答の仕方を変えて、水辺に近づいたら飛び込むというような、2ステップで行動操作を巧みにしてるんやってことが、今は想像されてます」とおっしゃっています。

虫の世界では、こんなものすごいことが起こっているのですね。そういえば、日本語には「虫の知らせ」を始め「本の虫」「虫が好かない」「虫が騒ぐ」「虫の息」「虫がいい」「虫がつく」「疳の虫」「虫の居所」「虫酸が走る」「蓼食う虫も好き好き」「一寸の虫にも五分の魂」「飛んで火に入る夏の虫」「弱虫」「泣き虫」「お邪魔虫(笑)」など、たくさんの虫に関するいわれがあります。これらは仏教的な意味での「根性」、たとえば「弱虫」は、ひとの根本的な性質、「虫が好かない」は潜在意識的なもの、 またご存じ!「虫の知らせ」などはスピリットガイドからの声かもしれませんね。昔の日本人は、言葉に関する感性も抜群に繊細でした。

ところで人間界にも「虫≒潜在意識」的な衝動に突き動かされ、“やめられない止まらない“ことがよくあります。思いつく限りでは、それはネガティブな感情に結びついていることが多いようで、たとえばマウンティング行為が挙げられます。

後で、あれが「マウンティング」というものだったのかとWebで知ったほど、「マウンティング」というタームの使われ方を知らなかったTakako ですが、過去の被マウンティング経験を想い出しつつ感じるところを書いてみます。まず、マウンティングする人はマウンティングをしないではいられないんです。どうしても勝たなければ問屋が下ろさぬ。どんな些末なことでも。どうしても、是が非でも!!!、どんなレベルでも!って感じで不思議でした。それはいっくら見栄えの良い経歴などがあっても関係ないみたい。つねに賞賛を求め、相手(Takako)を自分に傅かせたい、自分が上なのよ!と自分とTakakoだけのせまーい限定的かつ暫定的世界の中(こーゆー心理劇は大抵、密室的な空間で起こる)で決定事項にしたい!決定したらそれを世間に広く知らしめてやる!そんな更なる欲望や焦燥感が透けて視えるようで。わたしにとっては意味不明だし、会うたびに同じような展開になるのでこれはおかしいと。何よりほとほと面倒。そんな人と一緒に時間を過ごす意味も義務もないし。で、最終的にはその人とは距離を置くことになったのですが、彼女のマウンティング行為は、ちょっとしたきっかけで自動的に始まっていたことを覚えています。そして行為をすることが癖になる→”あ、また自分はやってる”と内心気づかないのか(?!)麻痺するというか無意識になる。多分、モラハラや虐待なんかも(あ!これも色んな要素が絡み、専門家でもないので簡単には語れないことですが・汗)一旦、そこにハマると神経や意識がどこかでパーン、と外れて発作が始まるような印象。

思うに、その人は自分の素晴らしさに目を向けることができていなかったんじゃないかな。そしてこれは彼女だけではなく、わたしを含め多くの人が抱えている課題とも言えそうです。彼女の場合は特に、公に見せている外面を結構盛っていたのですが、それとは真逆の、(盛っている分と等価値の)自己無価値感がベースとしてある。そしてその無価値感を「虫」と呼ぶならば、いつもは隠れている虫が、Takakoという”刺激”により顔を出し、社会的な存在である表の彼女を裏へ追いやり、虫が表舞台に現れる、言い換えれば陰と陽が入れ替わる。そしてその虫が、自分を出すきっかけとなった刺激を攻撃することだけにフォーカスするよう設定しているのでは?と今では考えています。使っているオリーブオイルの値段が自分のはより高く、しかもダースで買ってるので勝った!(いい年をした大人がしょーもなさすぎる)という、つかの間の勝利感と優越感で自己無価値感も和らぐので、一瞬気分は上がりスッキリする。が、意識の下の自己無価値感は姿を隠しただけで癒えたわけではない。のでまた無意識にでも繰り返す…のかな。そんな不毛行動はやめにして、ダイレクトに自分を大切にすることにフォーカスしたらいい…けど、出来ないから、そうなっているのですよね。辛いなあ…悲しいね…しかし、被マウンティング者の立場のTakakoは、個人的な変な同情はしませんよ。大体、たまたまわたしになった、だけで、要は”虫を起こす”ひとなら誰でもトリガーになり得るから。きっと今現在も次のターゲットにやってます。ので、今、まさにマウンティング被害ちうのあなた!あなたが悪いわけではありませんので気にしないことです。できるだけ関わりを持たず、距離を置けない状況なら適当に流す。

周りを見渡してみても、承認欲求が激しくアグレッシブ過ぎる時、他人より抜きん出て手柄を得たい!俺が俺が俺が!私が私が私が!と、こころが何かに囚われ過ぎて自分の中でのバランスがとれず、エゴ(=虫)中心の切迫感や衝動、強迫観念の虜となっている時は、中庸からは遠く離れ、結局はそのエゴに自分自身がむしばまれていくものだと考えています。そうなると心の平安や小さな幸せを見つけるのが非常に困難になるでしょう。たとえそれらが、目の前にあったとしても。

わたしの場合…激烈な競争心は元々あまりないと想うのですが、ただ、どうしてもセッカチ、イラちがちです。そのため人ごみの中をかき分けて進むとか人ごみを横断することが結構あって。これは実は競争心のひとつかも。もー、ホント、直したい癖(虫)なんですけどね!それで数年前、いつものように横断していたら、誰かの足にひっかかって、地下街の真ん中でチャトランガ(蛙のように這いつくばるヨガポーズ)状態で転倒。オイオイ!ひっかけた人は何も足に感じなかった(これも怖い)のか、とっとと去ったようで、どこへやら。わたしは足を捻挫しました。この事件で「人を抜かすエゴの虜になったからバチが当たった」と自戒し、それからは人様の動きと自分との距離をしっかり感じ『道は譲るもの』としております。(恥)が、まだ、何かとイラちな点は修行中。(身近な方々、ゴメンなさい・大汗)

あと「一度決めたら変更不可」な人、「振りかざしたこぶしを降ろせない」人。それから、むか~し観ていたサスペンスドラマで、盗みや殺人などの犯人が良く言ってた台詞が『気がついたらお金を握っていたんです』『夢中になって、首を絞めて、気がついたらあの人は死んでいたんです』とかね。(笑)

…どうせなら、ふと気がついたら幸せになっていたんです!のほうが天と地の差ほど、ずーっとずーっといいですよね!

そしてそうなるためには、わたし達の中のたくさんの虫を、愛でいっぱいにしてあげることが大切だと想っています。

たくさんの虫を愛でいっぱいにしてあげるには、まず【潜在意識を知る】ことですよね。自分を慈しみつつ、自分ともっと仲良くなるためにわたしはもっと潜在意識を知りたいと思っています。自分に正面切って向き合うことは実際、結構ハードなことでもあるけれど、そこは優しく。そうやってすり合わせながらたとえばひとつ、自分の中の謎が解けるヒントを頂くと、なるほど!と視界が広がるようで、とっても楽しいと感じる、もしかしなくてもヘンタイ?(笑)。多分、そういう理由で、自己探求好きが高じてデフォルトになるまでに至ったのかもしれません。それにね。潜在意識を知ることで、自分自身や人生の可能性がもっと広がるはずですからね。(笑)いやはや、おあとがよろしいようで。