A Zen Master Explains the Art of ‘Letting Go’, And It Isn’t What You Think
Takakoです。さて、ティク・ナット・ハン師。ご存じの方も多いと想いますが、同師はベトナム出身の禅僧・平和・人権運動家・学者・詩人です。ダライ・ラマ14世と並んで、20世紀から平和活動に従事する代表的な仏教者であり、行動する仏教または社会参画仏教(Engaged Buddhism)の命名者でもあります。アメリカとフランスを中心に、仏教及びマインドフルネスの普及活動を行なっています。(Wikipediaより引用)わたしは、ハン師の本を1,2冊読み、YouTube でリトリートやセミナーの動画を試聴したことがある程度ですが、優しく詩的なお説教が印象的な、慈愛に満ち溢れた方でした。そのハン師による、”Letting Go”が本日のテーマです。皆さまは「手放し」という言葉を、どのように捉えておられますか?何かを、または誰かを「手放し」たことがありますか?その時、どう感じましたか?その前に、「手放せた」のでしょうか?アナ雪のLetting Go♬で、~ありのままで♬~と歌われていた時『う~ん。ちょっと違うけどな?』と感じていた方もいらっしゃるかと思います。さて、ティク・ナット・ハンによる『本当の意味での「手放し」』。興味深い↑の記事を、Takakoの”なんちゃって超訳”でお届けいたします。よろしければどうぞお読みくださいませ♡
ベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハン師は、「手放し」について興味深い見解をもっている。「分離」や「非執着」について、ある種の冷淡さ、または感情的に他者と切り離されている状態であると誤って理解している人々が多いが、ハン師の説明によれば、本来、「手放し」とは誰かをかつてなかったほどに愛することであると、しばしば解釈されるというのだ。
ブッダは八正道の一節で「分離」を、物理的に身を引くことではなく、厳しい行為でさえないと教えている。ブッダは“正道の不可欠な部分である非行動”を説いているが、もしこの教えが前後の文脈なしに抽出されたとしたら、それは私たちに、あたかも他者への関心を無くすよう奨めている印象を与えかねない。その教えに従うと、私たちは自分自身の感情をひしひしと感じたり、表現したりすることなしに生きていかなければならないことになる。すなわち、自分を人生から切り離すことになってしまう。
このような誤訳は、悲しいことに良くあることだ。なぜならパーリ語から英語へ直接翻訳されるとは限らないからである。
一般的に使われている「分離」という言葉は、ブッダのメッセージを誤って解釈されているものに過ぎないのだ。
ハン師は、真に手放すためには完全に愛を学ばなければいけないと諭す。そして「分離」は、私たちの個人的な利益への期待、あるいは具体的な望ましい結果への期待などをはるかに超えて、他者に対する愛が大きく広がる場合にのみ起こるという。ハン師は、「手放し」を形づくる、4つの完璧な「分離」の要素について語っている。それらは驚くべきことに、あなたを傷つけたり、あなたの欲望や恋愛関係への興味に関心を払わなかった全ての人々を洞窟に立てこもって無視することではない。そんなことを「分離」とは呼ばない。Letting go(手放し)とは、飛び込んでいくものなのだ。
4つの真の「分離」の要素の1つめは『真実の愛』であるが、それはあなたが通常考えるような愛ではない。Maitri(パーリ語でmetta)は、喜びや幸せを提供する意志と能力を意味している。この能力を向上させるためには、良く見て、深く聴く練習をしなければならない。すると、他者を幸せにするために何をすべきか、また何をすべきでないかを見極めることができるようになる。もしあなたが、最愛の人に、彼女が必要でないものをあげたとしたら、それは愛ではない。あなたは、彼女の現状をよく見なければいけない。そうでないと、あなたが差し出したもので彼女を不幸にしてしまうかもしれない。
別の言葉を使えば、あなたの「分離」は、相手を愛され感謝する気持ちにさせるために普通に示している仕草や行為が、今あなたがとても愛している人のニーズではないかもしれないということを受け入れることになるかもしれない。 相手を“喜ばせる”というエゴ的な意図をもった、お決まりの“愛の仕草”のやりとりを相手に強いる代わりに、ただ、あなた自身のニーズを切り離し、何が相手を快適で安全で幸せにするのか、心から見つめ直してみようではないか。
ハン師はさらに言葉を続ける。
『我々は言葉をもっと慎重に使わなければいけない。“愛”とは美しい言葉だ。我々はその本来の意味を取り戻すべきだ。maitri(愛)の語源はmitraという言葉にあり、その意味するところは友だ。仏教においては、愛とは友情のことである。』
2つ目の真の「分離」とは思いやりと慈愛である。我々が「手放す」とき、傷ついている相手に対して、思いやりを込めて触れたり、言葉や行為でなぐさめ手助けをすることを惜しまない。そして我々は彼らの傷や痛みがそれで消えるとは思ってはいない。思いやりには、深い懸念も含まれているけれど。それは、冷淡さではなく、他者から孤立するというのでもない。ブッダは微笑む。なぜ痛みや苦しみが存在するのか、そしてどうすればそれらを変容させることができるのか分かっているから。あなたが結果を手放せるようになった時、もっと深く人生に関わっていくことになるだろう。しかし「手放し」は、あなたがもうその事柄から完全に縁を切って、せいせいしているという意味ではない。たとえそれが、あなたとは関係のない、他者の痛みであっても。
真に手放すためには、感謝することを学ぶことだ。我々が抱えている全てのもの、たとえばさまざまな物事の結果にもはや執着しなくなり、感謝で乗り越えることが出来た時に喜びはやってくる。ブッダのいう喜びは “無私の喜び”だ。すなわち、自分たちに良いことが起こった時だけではなく、他者が幸せを見つけた時にも喜びはやってくるものだ。
あなたの道と重なることはない、彼ら自身の道を歩み続けると決めた恋人や友人にさよならを言わなければならない時、彼ら彼女らが新しい恋を見つけた時、またはあなたの代わりにかつてあなたの場所だったところに誰か見知らぬ友人が座る時、痛みを感じるかもしれない。これは真の「分離」ではない。喜びは、あなたが幸せを見つけた時や他者が、あなたとはほんの少ししか、またはまったく関係がないことで幸せを見つけた時にさえ訪れる。
最後にハン師は、「手放し」の真のプロセスに偉大な光を放つ真実の愛(博愛)について述べた。
博愛は、Upekshaと呼ばれ、精神の静けさ、愛着を手放すこと、差別をしないこと、公正でいること、または「手放し」そのものだという。Upaとは、~より高いという意味でikshaは見る、という意味だ。すなわち、見渡す、ということである。あなたは全体の状況を把握するために山に登る。偏った見方をしないように。あなたの愛が愛着、差別、偏見または執着にまみれていたなら、それは本当の愛とは言えない。
仏教を理解していない人々の中には、博愛を無関心さと捉える人もいる。しかし本当の意味での平静さとは、冷淡でもなければ無関心でもない。もしあなたに、数人の子どもがいれば、どの子どもも分け隔てなく可愛いと想う事だろう。博愛とはそういうものである。
このような特質が欠ける時、私たちの愛は所有欲に傾きがちになるとハン師はいう。それは、エゴのたまり場だ。私たちは、風や蝶のように舞い、流れることを望んでいる、または死の危険にさらされている最愛の人をポケットに入れて運ぼうとするものだ。それは、愛ではない。破壊だ。
愛が真実であるためには、慈愛、思いやり、喜びそして平静さをもっていなければならない。そしてこれが、本当の意味での「手放し」である
「手放し」の本当の鍵は技術ではない。それは、許すことであり、許しそのものである。
ほど良く距離感のある関係は、健康的で強く、自然に湧き出てくる愛や親切、思いやりで満たされている。どのような場面においても、自己を主張する必要がもうないため、完全に無私だからだ。もしあなたが本当に手放したいのなら、もっと多く愛さなければいけない‐もっと少なくではなく。これが、ブッダのこの貴重な教えについての最も一般的な誤解である。
本日もお読みいただきありがとうございました。また、おつきあいくださいませ。