許しとは、ときどき行うものではなく、常に持つべき姿勢である。~ マーティン・ルーサー・キング・ジュニア

Takakoです。「許し」とは誰にとっても最も難しい選択のひとつです。もちろん、わたしにも経験があります。相手は職場の同僚だったのですが、もう、その人のすること為すこと全て、腹が立って腹が立って。少し自己弁護をすると、彼女については他の人々も『あの人は”ひとのために”ということが一切ない。ほんと、煮えくり返るよね』と言ってくれているのをいいことに「怒ってもいい」という許可を無意識に自分に出してたんでしょうね。それで毎日、遠慮会釈もなく怒りすぎてネガティブエナジー満載だった(恥)んです。その結果、だと信じてるのですが、まさかの子宮体がん疑惑をかけられ、とある大学病院でエライ目にあいました。でもそれからも”自分は正しい”との思いは変わらず。(もう…ここでね。ひょっとしたらわたしも間違っているかも?と思い至ればよかったのに。それほどに「怒り」は強い感情ですよね。)そして、そんなある日、不注意で手首に骨折を負い、重い書類のファイルを持てないわたしに、その人は親切に手助けをしてくれたのです。するとまるで天照大神が天の岩戸からでてきたように一瞬にして「怒り」が『感謝』に変わったのです。そして、そうすることがどんなに心地よいか、どれだけハートが開いた感覚を得るか、どんなに気持ちが軽くなるか体感しました。で結局、分かったことは、その人自身は変わらないってこと。でも、自分は、自分の「嫌い」という呪縛から解き放たれたんです。すると、あんなに嫌っていたのが嘘みたいに消えました。結局わたしは「その人を嫌っている自分が許せなかった」のです。さて、本日はわたしのこんなAha!体験をぐっと腑に落としてくれる超素敵な本から抜粋してご紹介します。『人生を、もっと幸せに生きるために-死者からのアドバイス』著者はまたご出演!わたしの目下の魂のアイドル、ジェームズ・ヴァン・プラグ師でございます。

許しとは何なのか?

許しとは、私たちが自分自身に与える贈り物のようなものだ。それは、他者に対する怒りや復しゅうの念に固執しないという意識的な選択である 。エネルギー的に見ると、その不快な行為に対して持っている思考や感情から 、自分を解放することである 。許しを選択することで、不快な行為をした人の責任が軽減されたり、不快な行為自体が正当化されたりするわけではない。むしろ、自分自身をネガティブな思考から解放できるのだ。

人間は習慣を断ち切れない生き物である

人間が習慣を断ち切れない生き物であることは疑う余地もない。物事に固執し、必ずしも変化を好まない。私たちの心を傷つける可能性が高い存在は、パートナーや友達、家族、そして同僚など身近な人びとだ。私たちはこのような人たちを心から信頼し彼らに自分の弱みを見せても大丈夫だと考える。彼らは自分たちを決して傷つけることはないと信頼しきっている。これはある意味、自分が傷つく環境を整えているようなものだ 。私たちは、彼らにこうあってほしいと期待し、彼らのありのままの言動が自分の期待に添わない場合は不快に感じるからだ。私たちは友達や家族に対して自分の理想を描く場合が多い。それも、彼らが実現できないような理想を。そのため物事が自分の思い通りに進まないと、私たちは傷ついたり、裏切りや拒絶、あるいは侮辱されたと感じ、許すことが我慢ならなくなる。私たちの多くは、間違った行為をした人や自分を傷つけた人を許すことは、降参したか負かされたと考える。加害者を許せば、また自分を傷つけることをその人に許可しているように感じる。同時に、加害者を許さないことで 、私たちは 「あなたが間違っていて、私が正しい 」のように自己を正当化し、加害者よりも優位な立場にあるかのような気分を味わえるのだろう。

私たちはその人に教訓を学んでほしいと望んでいる

私たちはその人に教訓を学んでほしいと望んでいるのだ。しかしそのような状況に置かれたとき、わだかまりを持ちつづけると、人はさらに見当違いな期待をするものだ 。加害者を許さないでいれば、その人が後悔して同じ過ちをくり返さないようになるだろうと期待してしまうのだ。残念ながら、普通はこのように事は進まないし、もしそのように進んだとしても、加害者はまだ精神的な学びを得ていないことになる。人間関係または状況を好転させたいのならば、望んでいる関係や状況を相手に伝える必要がある。」もしその加害者が態度を改めたくないのなら、その事実を受け入れてあきらめるしかない。

私たちが許すことができないでいるもう一つの理由

私たちが許すことが出来ないもう一つの理由は 、自然に生存本能モードに陥ってしまうことだ。私たちのエゴは生存本能的に、誰かに怒りの感情を持っていると安心する。怒りの感情を持っていれば自分のエゴはその状況で主導権を握ることができるからだ。相手に対して怒りの感情を持ちつづければ、その状況で間違いなく優位な立場にいられるのだ。

私たちの体にある感情の主なエネルギ ー中枢

私たちの体にある感情の主なエネルギ ー中枢は、下腹、みぞおち、心臓の三か所である。誰かを許せないときは 、これらの一つまたは複数のエネルギー中枢に恨みの感情が残ってしまう。私が他者を透視すると、彼らのエネルギー中枢のほか、エネルギーが正常に体の中を上向きに流れているかどうかを見ることができる。水の流れを見ているのと同じだ。私はその人のエネルギーの流れに意識を集中すると 、流れを妨げている障害物を見つけることができる。これまで私は、胃のあたりにある茶色いまだらの斑点や、心臓周辺にある灰色の塊を数えきれないほど見てきた。このような感情的な障害物がずっと残ったままだと肉体的な軽い疾患や病気に発展する可能性が高い。許す行為がこれほど多大な影響を心身に与えるのであれば、私たちはなぜ自分や他者をなかなか許すことができないのだろうか?私たちはこの世を去るとき許しの心が足りなかったことに起因するとてつもない悪影響を、あちらの世界に一緒に持ちこんで生きていかなければならない。そこでは、生前に状況を解決できなかったという思いが頭から離れないかもしれない 。一方で、この世に残された相手は 、自分は許してもらえなかったという心のしこりをいつまでもひきずることになる 。

この世で私たちが生きる目的

この世で私たちが生きる目的は、できる限りの成長を遂げて理解を深めることであるため、霊たちは私たちに目的を達成してほしいと願っているが、私たちが受けているテストの答えは教えられないのだ。彼らは、この世で私たちが置かれている状況は詳細に把握しているため、正しい方向に私たちを導くことはできる。しかしすべての選択肢に心を開き、愛に基づいて決断を下さなければならないのは私たちなのである。

許しとは、ときどき行うものではなく、常に持つべき姿勢である

さて、最後にTakakoのコメントを。本記事のタイトルとなったマーティン・ルーサー・キング牧師の言葉『許しとは、ときどき行うものではなく、常に持つべき姿勢である』ですが、ほんとうにそうありたいものです。蓄積は慣れにつながり、慣れは習慣となり、無意識に落とされてしまうから。最近、自分の選択に対して迷うときは『愛にもとづくものか、それとも恐怖から出たものなのか』というところに立ち返るということをしているのですが、この「赦すということ」(わたし的に「赦し」という漢字を使いたいので)も、赦すとどうなるか恐怖に基づいて想定すると“禍が降りかかる”。まるで、恐怖という自分で作ったシェルターからは一歩も出られないように。けれど愛に基づくと、ふわーっと気持ちいい空気が広がっていくような、そして「愛=赦し」という図式が完成するようなイメージが湧きます。それが、“恐怖を克服する”ことにもつながるのかなと。ここでまた、許さねばならない、と自分を追い詰めないでおきましょう。冒頭のわたしの経験も、突然やってきました。そう、きっとあなたにとって完璧なタイミングで、変容はやってくる・・・そのようにわたし達自身をこころから信頼していきましょうね。きっと大丈夫ですね。

本日もお読みいただきありがとうございました。また、おつきあいくださいませ。

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